自分と誰かは比べようがないというより虚である

普段の生活の中で、「自分には何もない」感覚がふとした瞬間に押し付けられることほど苦しいものはない。
この状態に陥ると、これまでの時間の過ごし方に「無駄」という言葉が書かれた紙が、びしっと貼り付けられたような気分になる。

今日、昨日、ここ一ヶ月間、この一年間……あなたは何をしましたか?
そのような問いかけに、「うるさい!」と一蹴さえできない自分にたまに辟易する。

生きていれば、それだけいろんな経験をする。
生きている時間分だけ、着実に経験値を獲得しているはずだ。

なのに「自分には何もない」と思ってしまう。

こうなるタイミングはいつも決まっている。
自分と同じような仕事をしている人や趣味を楽しんでいる人で、
かつ自分よりも遥かに大きな経験値を効率よく獲得した人に出会うときだ。

なまじっか比較できてしまうから、自分の経験値獲得の事実がかすみやすい。
芸能人やオリンピック選手よりもはるかに身近で、なんだかよくわからなけれど、「あのとき頑張っておけばなれたかもしれない」的なことを思えてしまうから苦しい。

いやしかし……
だけれども、である。
ここで苦しみをそのまま苦しみ迎え入れず、ちょっと踏ん張るべきだと最近は思う。

なぜなら、その人と自分は、同じ時間の中をいるわけがないからだ。

僕は、この社会が形成してきた時間とは別に、個々の存在が持つ時間があると思っている。
僕の中には僕だけの時間があり、その人にはその人だけの時間がある。

仮にその人が僕と同い年で、僕よりも遥かにたくさんの経験値を積んでいたとしても、苦になる必要はない。

僕の時間は社会の時間に対してゆっくり流れるものだった。
その人の時間は、僕の時間や社会の時間に対して早く流れるものだった。

単にそれだけの話である。

僕が言う個々の時間とは、友だちと遊んでいるときは早く流れ、退屈な授業を受けているときは遅く流れるような、いわゆる体感時間と呼ばれるものかもしれないが……
もちろん、個々の時間は単なる思い込みではない。

りんごがあって初めて「りんごがある」と存在を認識するように、そこに何か比較する対象が存在しなければ「もうこんなに時間が過ぎているのか」「まだこんな時間なのか」と思うことはないのだ。
事実、楽しくもつらくもないときでも、「あれ、もうこんな時間か」と時間の感覚のズレを感じるときがあるだろう。

個々の時間は、意識よりも前にある。
すなわち個々の時間は現にそこにある、そう僕は考える。

だから、もっと言うと誰かと比べようがないというか、比べることが虚なのだ。

そう考えて、僕は最近気がとても楽になった。

とはいえ、結局それこそが思い込みでもあったりする。
こうした結論付けは、自分で導き出すほかない。

僕は時間を軸にたどり着いた。
そういう話をここに残しておきたかった、ということである。

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