それは期待ですか?
価値観の押し付けではありませんか?
期待と言えば聞こえはよいが、価値観の押し付けと言われれば受け止めがたくなる。
でも何が違うのかはよくわからない。
僕はいまだに、その問いを自分にしてもはっきりと答えられない。
僕たちは油断していると人に期待しすぎる。
あの人ならやってくれるだろう。
こういうときに、こうしてくれるだろう。
当然ながら、誰ひとりとして、自分とまったく同じことはできない。
こちら側の想いは、100%満たされることはない。
でも、そこで、「次こそは」と思ってしまう。
それこそが、やがて価値観の押しつけになるのだと思う。
僕たちが、価値観を押し付けるようになるまで人に期待してしまうのは、本当にその人に期待をしているからではない。
人に期待をしなくなったとき、
「ちゃんと期待をしてくださいね」
「諦めてはいけませんよ」
「期待をしないのですか?」
「そうですか、諦めるのですね」
「わかりました。あなたはそういう人ですから仕方ありません」
と、実在しない他者から呆れ気味に言われるのをおそれているからだ。
実在しない他者は、ときに自分自身であり、ときに家族であり、ときに友人であり、ときに先輩・上司であり、ときに先祖であり、ときに見知らぬ人である。
もちろん、ときには動物になり、ときに自然になり、ときに地球にもなりうる。
いずれにしても、そのとき、そのタイミングでその言葉を一番言ってほしくない存在に変貌する、それが実在しない他者。
諦めが肝心という言葉がある。
僕たちが本当に諦めなければいけないのは、多分他者への期待ではない。
実在しない他者からの、僕たちの期待をし続けることに対しての期待に応えることだ。
実在しない他者からの期待を避けようとすればするほど、実在しない他者は次々にさまざまな存在へと入れ替わり、多方面から絶えず期待を寄せてくるので、多分に難しいことではあるが……
もしも、
それは期待ですか?
価値観の押し付けではありませんか?
この問いに答えられず、そして答えられないことに悩まされているのであれば、やはり実在しない他者に打ち克つほかないだろう。
そして唯一の方法は、多くの実在する他者と言葉を交わし、実在しない他者の実在しないという強みを根底から崩していくことだと思う。
何かもやもやとした掴みどころのない他者を、リアルな言葉でもって制する。
対話の意義は、もしかしたらそこにあるかもしれない。