Facebookの様相が変わりすぎて、せつない気持ちになっている

2018年、フリーランスになったのを機にFacebookアカウントをまた使い始めた。
2015年に一回離れていたけれど、僕のアカウントには200人くらいの友だちがいて、うまく活用すれば仕事のきっかけが、そこでも掴めるかもしれないと思ったのが理由だった。

だけれど、3年ぶりに戻ってきたFacebookは、随分様相が変わっていた。
ひと言で言えば、想像を超えるレベルで過疎化していた。

――

僕が最初にFacebookを使い始めたのは、2012年とか2013年だった。
正確な年は曖昧だが、流行りはじめてから一歩遅れてアカウントを作成したのは覚えている。

周りの人はもう始めていて、登録してまもなくして200人くらい友だちができた。
同級生の名前とか昔の職場の人の名前とか見て、あの人もやっているんだ…!と思ってワクワクした。

200人の友だちの半分くらいの人は、精力的に文章や写真を投稿していた。
投稿だけでなく、「いいね」やコメントもたくさんあった。
僕のタイムラインは、ほどなくして友人・知人・仕事仲間の情報と言葉で溢れた。

そんな感じで投稿する人も見るだけの人もたくさんいたので、僕の投稿内容にも比較的「いいね」がついた。
朝、家のベランダから何でもない外の景色を撮って、「気持ちいい朝」とか適当なコメントつけて投稿しても、誰かは「いいね」してくれる。
いわば「いいね」バブル状態。そんな感じだった。

そんなFacebookを僕がやめたのは、僕より周りの人がばんばん「いいね」を獲得していくのを見て、次第に「いいね」の数が気になり始めたからだ。

「いいね」がもらえるようないい写真は何か、いい言葉は何か、そういうのを考えるようになった。

そのうち大して「いいね」がつかないときに落ち込むようになった。
同時に、特定のグループ内の人たちが、そのグループ内の人の投稿だけに「いいね」し、それ以外の人の投稿にはまったく「いいね」しないのを見て辟易するようになった。
昔形作られた人間関係が、そのまま「いいね」というものに如実に反映されていて、誰も何も変わっていなくて、そういうのを見て、くだらないとさえ思うようになった。

僕は、Facebookを開くたびに嫌な気持ちになっていた。

それであるとき、ふと「それはSNSとの向き合い方としてどうなのか?」と思い、スマホからFacebookアプリを消し、ブラウザのブックマークからFacebookを削除した。
そのあと、アカウントが残っていては意味がないと思って、退会手続きもした(結局アカウントは削除できていなくて、後にそれがきっかけで復活させることになるけれど)。
それが2015年のことだった。

――

2018年。3年ぶりに戻ってきたFacebookはすっかり変わっていた。
プライベートの投稿が、前よりも圧倒的に少ない。
僕のタイムラインは、前から「いいね」していた企業アカウントの投稿と広告で大半が占められていた。

200人の友だちがいるアカウントでこうなのだから、それより友だちが少ない人のタイムラインはもっと極端だろう。
以前のような見るだけでも楽しいSNSではなくなっているのは容易に想像がつく。
今Facebookを定期的に見ている人がどのくらいいるのかはわからないけれど、以前よりは間違いなく減っていると思う。

投稿につく「いいね」の感じ(数とか、いいねする人とか)も、今までとは明らかに違っていた。
そこからも、見る人が減っているのを感じた。
僕でさえそう感じるのだから、これまで精力的に投稿していた人は「もう、みんな使っていない」となったのではないか。

見ていて面白くないから見なくなる
⇒見ている人が少ないから投稿する気持ちを薄れる
⇒投稿されなくなるから見ていて面白くない

こうしたループの成れの果てが、今のFacebookなんだろう。

僕はこんな状態のFacebookを見て、何となくせつない気持ちになった。
久しぶりに帰ってきた地元が、再開発によって様変わりしているのを目の当たりにした気分だった。

駅前はすっかり整備されて、都会にもあるチェーン店が入った商業施設ができている。
学生時代によく通っていた個人経営の本屋も文房具屋も、制服を仕立ててもらった洋服屋も、威勢のいい声でお客さんを呼び込むおじさんがいた八百屋もなくなっている。
便利な情報や役に立つ情報は手に入るものの「あのときの魅力」はどこにもない。
それが今のFacebook。

Facebookの「あのときの魅力」の「あのとき」は、みんなが純粋に、欲を持たずに楽しくプライベートの投稿をし、それを見てコメントしたり、「いいね」したりしていたときだ。

再開発された地元がそうであるように、今のFacebookもまた「あのときの魅力」を取り戻すことは二度とないだろう。
みんなが一斉に、同じタイミングで地元に帰る必要があるからで、それはそれぞれの生活を考えたら不可能に近い。

もちろん、再開発には再開発なりの、今のFacebookには今のFacebookなりの魅力がある。
だから、もともと住んでいた人間である僕が今すべきなのは、心を整理して、ちゃんと向き合い、その魅力を見出し、受け入れていくことだろう。

けれど、本当にそれでいいのか。
何か諦めてはいないか。
せつなさを感じる自分の心が、せつなさを感じる度にそう言っている。

結局、僕はこれからも、Facebookに希望を抱き続けるだろう。
過疎化が進み、誰もいなくなったとしても、アカウントを消すことはないと思う。
このせつない気持ちがなくならない限りは。

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