自分だけは大丈夫、というのは、まるで見えない鎖だ。

駅前に用があって、久しぶりにバスに乗った。
そしたら、バスのアナウンスでこんな内容が流れていた。

「立ったままで、両手でのスマートフォンの操作は大変危険です。手すりかつり革にお掴まりください。……」

携帯を操作しながらの歩行は大変危険です、というアナウンスはよく聞いていたが、なるほど。
今はこんなアナウンスも流れているんだな。

バス会社の誰かが、実際にそれを見て「危ないな」と思ったんだろう。
あるいは乗客の誰かが、「危ないからやめさせてください」とバス会社に連絡したのかもしれない。

いや、もしかしたらもうすでに何かトラブルが起きたのかもしれない。

何にせよ、アナウンス前に”実際の行動”があったはずだ。
でなければ、そんな注意を促さない。

誰だって、危ないってわかるからだ。

だから、こういうアナウンスは聞いていると辟易する。

「そんなの危ないって決まっているのに、なぜするんだろう。危機意識が低いんだろうなあ……」
「そんなこともわざわざアナウンスしないといけないなんて、なんか馬鹿らしいなあ……」

と。

でも、よくよく考えてみたら、そんなふうに上から見る権利はどこにもない。

僕にも今このタイミングでスマホを操作しなくてもいいよな、というときがある。

交通量の多い駅前の交差点で信号待ちをしているとき。
駅のホームの一番前に立って電車を待っているとき。

あげれば、たくさんあるだろう。

じゃあ、もしこのときに、
車が歩道に突っ込んできたら?
誰かに後ろからぶつかられたら?

逆に、僕が誰かを傷つける場合だってある。

僕の行動に伴う危険性は、バス車内のスマホ両手操作と何も違わない。

自分だけは大丈夫、というのは、まるで見えない鎖だ。
気がついたら捕らわれている。

安心を過信している以上、自分自身で逃れる術はない。

もし理由なく、単に逃れられないと言い訳をし続けていると、どうなるか?
同調圧力か、さもなくば法律が登場してくる。

コロナの自粛警察が話題になったとき、やりすぎだと思った人は多いだろう。
コロナ関連で罰則が規定されそうになったとき、心がざわついた人は少なくないと思う。

いずれにしても、とても穏やかにはいられない。

車内アナウンスは、理由なく言い訳をし続けないための注意喚起なのだ。

何が危険で何が危険じゃないか、そのボーダーラインは曖昧だし、
「従わないならば、相応の理由を述べよ」と圧力をかけてくる感じもしなくはない。

だから、
「危険ですので、しないでください」
「迷惑になりますので、おやめください」
「可能性がありますので、お控えください」
と言われると、つい反発したり無視したりしたくなる。

けれど、一度聞き入れて、理由や根拠を探る。
そうやって、自分の言動に一旦ブレーキをかけるのも大事だろう。

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