僕の友人に、K君という人がいる。
昔、同じ書店で働いていたときに仲良くなり、今でも定期的に連絡を取り合っている大切な友だちだ。
僕がブログを書き始めたと伝えたら、彼もまた小説を書いたと言い、2,3000字程度の作品を4本送ってきてくれた。
その中でも、強烈に印象に残った1本について、感想を少し述べたい。
小説のタイトルは、『「わからないもの」の時間。』である。
※
主人公の少年、深見 一(フカミ ハジメ)が通う中学校には、『「わからないもの」の時間』という授業があった。
授業と言っても、先生が教壇に立ち、何かを教えてくれるわけではない。
生徒が「本当にわからないと思ったこと」を話し合う時間だった。
「本当にわからないと思ったこと」は、クラス内にある目安箱に匿名で投稿する。
授業時間になると、投稿された「本当にわからないと思ったこと」の中からランダムでひとつ選ばれる仕組みだ。
ちなみに、これ以外にも、
・授業に参加するのは自由(興味がなかったら自習OK。寝てても怒られない)
・結論を無理に出さない
などのルールが設けられていた。
深見少年は、そんな授業を利用して、ある願いを叶えようとしていた。
それは、クラスメイトの浅間千映(アサマチエ)さんとしゃべる、こと。
深見少年は、浅間さんに思いを寄せていた。
でも、これまで浅間さんとまともに話したことがない。
なんとかして、話せるようになるきっかけを掴みたい。
これが深見少年の願いだった。
彼が、その願いを叶えるのに、『「わからないもの」の時間』という授業を利用しようと考えたのは、前に同じ授業であった出来事にある。
あるとき、授業内で提示された「本当にわからないと思ったこと」に対して、誰もがなかなか答えられずにいた。
しかし、ひとりの地味なクラスメイトが、みんながはっとさせられるような答えを出した。
すると、どうだろう。
そのクラスメイトに対して、浅間さんが「すごい!」と言うではないか。
深見少年は、それが羨ましくて仕方がなかった。
だから考えたのである。
自分も同じようなことをしたら、彼女から一目置かれるだろう、と。
深見少年は、必死に「本当にわからないと思ったこと」を考えた。
誰もが悩んでしまう、そして自分だけがはっきり答えを言える議題を。
「本当にわからないと思ったこと」を出さなければならないから、事前に自分だけが答えを知っているのはルール違反だ。
深見少年は、重々承知していた。
彼はそれでも浅間さんと話したかった。
そんな彼の強い念が、通じたのかもしれない。
ついに深見少年の「本当にわからないと思ったこと」が選ばれた。
彼の議題は、尊敬の果てはあるのか、というものだった。
自分が尊敬する人には、自分と同じように尊敬する人がいる。
その尊敬されている人にもまた尊敬する人がいて、またその尊敬されている人にも尊敬する人がいる。
こうして数珠つなぎに考えたときに、最終的に誰に、どこに行き着くのか。
クラスメイトは、さまざまな意見を出した。
だが、みな明確な答えが出せずにいた。
深見少年の目論んだ通り。
彼は頃合いを見計らって、さも今思いついたかのように答えた。
「それは神様ではないか」
と。
※
ここまででも十分に面白い。
とても僕好みで、ワクワクする。
行き着いた先にいるのは神だった。
もしも僕がそのような話し合いに参加していて、隣に座っていたやつがそんなふうに答えたら、尊敬と嫉妬の念に駆られていたことだろう。
それくらい、刺激的な答えだ。
続きを話そう。
※
深見少年が「神様じゃないか」と答えたとき、クラスはざわついた。
やがて聞こえてくる「たしかに、そうかもしれない」という声。
彼は勝利を確信したことだろう。
ところが彼の望んだ結果にはならなかった。
思いを寄せる浅間さんは、こう言うわけである。
わかるけどなんか嫌、と。
結局、神か…って感じがする、と。
※
……なんという無慈悲な結果。
深見少年の目論見は失敗に終わった。
だが、K君の小説は、ここで終わらない。
むしろここからが、この小説の最大の見せ所であると思う。
雰囲気を感じていただくために、引用しよう。
「もしさ、神の上にさらに何かあったら面白そうじゃない?」
神様が尊敬するもの。と千映さんが続ける。
すごい、と思った。神様が尊敬するもの。それは確かに面白そうだ。みんなも同じ気持ちなのがわかる。場が明らかに高揚した。普段話し合いに参加せずに自習をしている子達の中にも、面白そうだと参戦する人が現れた。
なんだろう。神様が尊敬するもの。
「みんなでさ、神を越えようよ!!」
千映さんも自分で言って自分でテンションが上がっているのがわかる。
(中略)
ふと考える。
全知全能の神様は、ひとりきりなんだろうか。
ひとりで、すべて知っているという状態はきっと。
すべてがわかるという状態はきっと。
きっと。
「すごくつまらないだろうなぁ」
僕は、呟きながらなにかを閃きかけていた。
それは、もう、さぞやつまらないだろう。
すべてを知っているという事は、何一つ意外な事がないのだ。きっと羨ましく思うんじゃないだろうか。
知らない事がある、という事を。
わからない事がある、という事を。
共感できる相手がいる、という事を。
「わからないものだよ!!」
僕は叫んでいた。
「え?」みんなが訝しげに聞き返す。
「神様が尊敬するもの!!」
「わからないもの、だ!!」
意外性と言い換えてもいいかもしれない。きっと全知全能の神様は、思いがけない事を欲しているんじゃないか?尊敬の対象と言えるほどに。
僕は一生懸命この事を説明した。
あくまで僕の考えだ。みんなが共感してくれるかはわからない。でも、そのわからなさが今は嬉しかった。
神様は何でも知っている。
だから尊敬される。
でも神様は、知らないということを知らない。
自分たちのように、知らないということを知っている人間を、逆に羨ましく思うだろう。
深見少年は、思いがけない出会いに喜びを感じた。
授業に持ち込まなければ、得られなかった経験である。
※
K君の小説で書かれている生徒のやり取りは、まさに哲学の基礎となる対話だ。
なぜ、そう思うのか。
それはどういうことなのか。
お互いに思いを聞き合い、共通認識を探り出していく。
哲学に必要な対話の姿が、K君の小説の中にはある。
こうした対話の授業は、学校でもしばしば取り入れられている。
K君の小説と同様に、まさにひとつの議題が用意され、それに対して話し合う。
対話を成り立たせるために、否定しない、論破しようとしない、などのルールもある。
対話によって身につけられるのは、ひとつの疑問に対して深く考える癖と、他の人の考えを一度受け止める態度だ。
反射的に相手を批判せず、お互いに建設的な議論ができるようになるだろう。
持っていて損はない力だと思うし、僕は対話の授業の実施に賛成である。
しかし、
「小説と違って、現実はうまくいかないだろう」
と思う人もいるかもしれない。
結局のところ、対話の実現可能性は、集団内で形成された文化による。
集団で成立する文化、特にクラスの文化には、上下関係が必ずと言っていいほど付随する。
だから対等な立場であるという意識が前提となる対話は、たしかに難しい。
深見少年の中学校の授業でも、そうである。
深見少年が、思惑はあったにせよ「本当にわからないと思ったこと」を真剣に考えなければ成立しない。
浅間さんが「神の上にさらに何かあったら面白そう」と言わなかったら、対話はその場で終わっていただろう。
ほかのクラスメイトたちが、深見少年や浅間さんの発言を否定せず、一考しようと提案しなければ、議論は発展しなかっただろう。
彼らのそうした対話に望む真摯な態度は、もちろん彼らが特別だからではない。
クラス内で対話をする文化があったからだ。
あとから何を言われるか、何を思われるか怖い……そうしたクラスの雰囲気が作られていないからだ。
でも、特にクラスでは、そんなことはないのが大半だろう。
誰かは下に見られ、小馬鹿にされている。
だから、難しい。
僕も、以前は思っていた。
でも、K君の小説を読んだとき、もしかしたらK君が示したように、「自分たちで議題を考え、匿名で投稿するような制度」を作れば変わるのかもしれないと感じた。
自分の議題が選ばれる可能性が十分にある。
それだけで、面白い議題を考えてみようと思う人が増えることはあるだろう。
ひとりひとりの態度が少しずつ変われば、対話しやすい集団の文化に、やがて書き換えられるはずだ。
実際に運用するには、「誰にでも議論の中心になれるチャンス」があることが伝わるように、
・対話を行う人数と頻度のバランス(人数が多いのに頻度が少ないと、結局自分が選ばれることはないと思われてしまう)
・投票の形式(人数と頻度の調節が難しいなら、たとえば先生だけは投票している人がわかるようにして、全員が選ばれるようにする)
などに気を配る必要はあるし、これ以外にも詰めなければいけないことはたくさんある。
けれどK君の小説は、僕に違う視点を与えてくれた。
まずは、深見少年と同じように、新しい発見の喜びを味わえたことに感謝したい。