友人と会って遊ぶのは楽しい。
だけれど、思い出として振り返ったときに後悔みたいな気持ち、恥ずかしい気持ちが押し寄せるときは苦しい。
「どうしてあんなことを言ってしまったんだろう…」ってなって、それを一生懸命振り払いたくなる。
自宅で友人と酒を酌み交わすのは楽しい。
だけれど、友人が帰ってしまったあと、静かな部屋に取り残されると寂しい。
楽しい時間がすべて幻だったかのような気分になる。
なぜこんな気持ちになるのかと言うと、友人と過ごすときに感じる楽しさが、無理して作り上げられたものだからだ。
僕のここで使った「無理」とは、自然発生的というよりは人為的な、という意味を持つ。
自然に生まれた楽しさではなく、狙って生み出された楽しさ、というイメージ。
こう言うと、「それは友人と呼ばないんじゃないか…?」と思われるかもしれない。
何も考えずに楽しい時間を過ごせるのが、友人との理想的な関係なんじゃないか、と言われるかもしれない。
でも、気を遣わなくていい仲と思っていても、やっぱり気を遣ったほうがいいときもあるだろう。
これをやったら絶対に嫌われる、と肌で感じる部分もあるはずだ。
友人との楽しい時間は、しんどいまではいかないけれど、何も考えてない状態のときよりは少なからずある「精神的な負荷」によって成り立っている。
そして僕たちは、友人との時間を過ごしている間、「精神的な負荷」に対して気づかないふりをしている。
「なんか表情が曇ったときがあったけど、今楽しそうにしているし大丈夫だよね!」
「今一緒に遊んでくれているんだし、こんなことを思うのは野暮」
“楽しい”のために、こんなふうに。
僕は、それを「無理して作り上げられた楽しさ」と呼んでいる。
だから、友人と別れたあと、付けが回るように苦しい気持ちや寂しい気持ちがやってくる。
ところで、この気持ちの訪れに着目すると、いろんなことが言えて面白い。
たとえば、僕たちが、またその会いたくなるのは、苦しさや寂しさを払拭しようとするからだ。
楽しい時間で、ネガティブな気持ちを上書きしようとする。
でも、結局新たに保存された時間もまた、苦しさを呼び、寂しさを呼ぶ……。
人付き合いをしている以上、このループからは逃れられないのだろう。
友人がこちらの誘いを断るのも、こんなふうに言える。
苦しさや寂しさは誰にでも訪れるけれど、それを消し去るために友人に声をかけたくなる“タイミング”は人によって異なる。
相手と自分のタイミングは違うのだ。
友人が誘いを断るのは、その人がある程度の苦しさや寂しさと出会っていなかったから。
それと、たまたま予定が合わなかっただけかもしれない場合でも、もしまったく苦しさや寂しさに出会っていなかったら、次の日程がすぐに決まる可能性は低い。
あるいは、仕事が落ち着いたらとか、曖昧な形で連絡のやり取りは終わるだろう。
こうやって考えてみると、友人関係に悩んでネガティブになっても、しょうがないことなんだと気がつく。
苦しいのも寂しいのも当たり前のこと。
誘いを断られても、それは、まだ相手が苦しくなっていない(寂しくなっていない)だけ。
僕たちは友人との楽しい時間を無理して作っているのだから、相手の態度に惑わされずに、常にポジティブでいる必要がある。
昔の僕に、誰かこれを教えてくれたらよかったのに。
そうしたら、もしかしたら、僕は人付き合いがもう少し楽になっていたのかもしれない。