リトグラフ作家の佐藤文音さんが、『ふしぎなニャーチカ』という絵本を出したというので買ってみた。
ゆめちゃんとともくんのふたりの姉弟が、おかあさんの誕生日プレゼントを何にしようか考える。
自分たちのたからばこに入っているものを見るけど、どれもしっくりこない。
そこにニャーチカという大きな猫が現れる。
ふたりはニャーチカと一緒に、おかあさんのプレゼントを見つけるための不思議な冒険をする――。
文音さんは、僕が以前いた職場の先輩だ。
その職場では、ライターとはまた別だが、文章を書くのが仕事だった。
僕はそこで、文音さんから文章の魅力というのを教わった。
どんな文章が人を惹きつけるのか、どんな文章が人をワクワクさせるのか。
それの大切さや面白さを、文音さんは僕に惜しみなく伝えてくれた。
今、僕が文章で生きていけているのは、間違いなく文音さんのおかげだ。
『ふしぎなニャーチカ』は、文音さんの文章に対する真摯な態度が垣間見える作品である。
僕は今までの感謝の気持ちを込めて、この作品と向き合った。
そこで気づかされたのが、次のことだった。
自発的に同じ経験を繰り返すことに、僕ら大人は疎ましく思う。
でも、実はそれこそが自分の血肉になっている。
決して忘れてはいけないよ、と。
――
文音さんと一緒に働くずっと前に、僕は一年間だけ図書館で働いていたことがある。
司書資格は持っていなかったので、貸出とか書架整理とか、予約された本のピックアップとか、そういうのが主な業務だった。
図書館にはいろんな人が来る。
閲覧だけをする人や、勉強だけをする人。
返却した本をその日のうちにまた借りる、というのを繰り返す人。
毎回予約した本を借りたと思ったら、近くのコピー機であらかたコピーして、すぐに返却する人もいた。
人によって図書館の使い方が異なるのが面白かった。
その中でわりと印象に残っているのが、毎回、たくさんの絵本を借りていく親御さんだった。
20冊くらいの絵本を借りていったと思ったら、1週間後くらいに全部を返却しに来て、同時にまた20冊くらい借りて帰っていく。
そういう人は、ひとりやふたりじゃなかった。
たくさんの物語に触れさせて、感受性を豊かにさせたい。
本が好きになってもらいたい。
そんな気持ちが親御さんにあったんだろうと思う。
それで、そういう親御さんが、お子さんと次のようなやり取りをするのも結構あった。
親「これ、お願いします」
貸出カウンターにいる僕のところに、20冊くらいの絵本を親御さんが持ってくる。
僕「はい。少々お待ちください」
一冊ずつ絵本についたバーコードを読み込んでいく。親御さんもそれを見ている。
そのとき一冊の絵本が目に止まって、親御さんが言う。
親「あれ、◯◯ちゃん。これ、前も借りなかったっけ?また借りるの?」
親子で絵本を借りにくるときは、たいてい子どもは子どもで好きな本を選び、親は親で読ませたい絵本を選んでいることが多い。
それを集めて一気に持ってくるので、子どもが何を選んだのか貸出カウンターに持っていったときに初めてわかる、なんてことは珍しくなかったりする。
それで、親に言われた子どもはこう答える。
子ども「うん!また読みたいから!」
親「好きねえ。まあいいけど」
親御さん的にはいろんな絵本に触れてもらいたいんだろう。
返事の調子から、そんな思いが僕にも伝わってきた。
こういう親と子のやり取りは比較的あった。
今の話は平穏なパターンだが、中にはそれで親と子が「借りる」「別のにしなさい」と、わりとしっかり揉めることもあった。
親御さんは大変だなあ、なんて思った記憶がある。
――
僕が『ふしぎなニャーチカ』と向き合ったとき、
ニャーチカとは何ものなのか。
ゆめちゃんとともくんが得たものは何か。
読者である子どもに伝えたいメッセージは何か。
そんな思いから、何度もページをめくった。
でも、ひとつひとつの文章から滲み出る暖かさに触れているうちに、今の図書館の出来事をふと思い出し、それだけが『ふしぎなニャーチカ』に向き合う態度なのだろうかと思った。
大人は絵本に期待を抱く。
期待があるから、子どもにたくさんの絵本を読んでもらいたくなる。
僕もページを繰り返しめくったとはいえ、期待の正体をはっきりさせようとしている時点で同じだ。
だから僕に子どもがいて、図書館が近くにあったら、同じことを考えていただろう。
一方で、子どもが絵本に対して、大人のように期待を持っているとは考えにくい。
楽しいから何度も読みたい、だけ。
図書館での親と子のやり取りが起きるのは、そのためだと思う。
もちろん、どちらがいいとか悪いとかではない。
絵本の向き合い方は、大人と子ども、いや人の数だけあっていい。
だけれどあえて言うのであれば、僕たち大人は、同じ本――もっと言えば自発的に同じ経験を繰り返すことを避けるようになってはいないか。
僕ら大人は、新しい知識を得たがる。
しないまでも肯定的だ。
何十カ国も旅をしている人や、何百冊と本を読んでいる人を、僕らは真っ向から否定しない。
その人には知識が豊富にあると感じ、無意識のうちにすごいと思うからだろう。
でも同時に、同じ経験を繰り返すことに対して、避けられるのであれば避けたい気持ちもどこかあるからだ。
たとえば「せっかく旅行に行くなら、同じところじゃないほうがいい」と僕らは思う。
本に至ってはそういう態度さえ出ないかもしれないけれど、それもまたある意味で「繰り返しを避けたがる気持ち」の表れと言える。
一方で、周知のとおり、自発的に繰り返したもののほうが記憶に残るし、今の自分の血肉になっていたりする。
僕なら、常に新しい気持ちで繰り返し読んでいた小説や、初めてプレイするような気持ちで何度も何度も遊んだゲームを、昨日のことのように思い出せる。
内容はもちろん、小説やゲームで感じた気持ちや、それにまつわるエピソードも。
『天空の城ラピュタ』なんてビデオが擦り切れるまで繰り返し見たから、ストーリーを最初から最後まで頭の中で描ける。
そしてそれらが、今の自分の考えに影響を与えていると感じることも少なくない。
僕ら大人は、同じ経験をすることを避けがちだ。
それは新しい経験に触れたほうが、知見を広げ、成長のために必要な知識を身につけられると信じているからにほかならない。
だから、子どものときと同じように、純粋に、楽しいからという理由で、同じ経験を繰り返すことは難しいとも思う。
でも、大人になった今でも、同じ経験を繰り返すほうが、次から次へと慌ただしく新しく経験に触れるよりも、価値あるものになることは十分にある。
少なくとも、「社会を生き抜くためだから」という理由で、自発的に繰り返し経験することすべてを疎ましく思う理由にはならない。
『ふしぎなニャーチカ』は、僕にあらためてそのことを気づかせてくれた。
ひとつに経験に対して、立ち止まって向き合うことの大切さを教えてくれたのだ。
この絵本は、絵本だから子どもたちに多く読まれるのが一番だろう。
でも、僕は、大人たちにも味わってもらいたいと思う。
僕と同じように、文音さんの文章に対する真摯な態度で、心が動く大人がひとりでも多く現れることを願っている。