うまく自分の中で消化しきれていない言葉に「価値観」がある。
言葉の意味はわかる。
その人特有の、ある物事や出来事に対する受け止めの仕方のことだろう。
先に言っておくと、僕の価値観という言葉そのものに対する態度は、どちらかと言うと肯定的な方だと思う。
「みんなちがって、みんないい」
そう言う金子みすゞが好きだし。
だけれど、いざ人に直接言われると、ちょっともやもやする。
昔、学校仲間との関係がうまくいかず、アルバイトの先輩に相談したことがあった。
「クラスメイトと会話が噛み合わないと言うか、一緒にいると気まずいんですよね。どんな話をしたらいいですかね?」
そう聞いたら、
「人それぞれ考え方が違うからね」
という答えが返ってきた。
まあ、たしかにそれはそうなんですけどね。
でも、それを言ったらおしまいではありませんか?
もちろん、僕は価値観というものが他人と合いにくいもので、なおかつ合わせるものでもない、とわかっている。
それを承知の上で、どう歩み寄ればいいのか、アドバイスがもらいたくて質問したんだけれど……。
思えば、あれが価値観という言葉の壁に初めてぶつかった瞬間だった気がする。
あと価値観と言えば、他の人の価値観というのはある意味聖域で、決して踏み込んではならない、そんな暗黙の了解も僕たちの中にはある。
たとえば、AさんがBさんに何かを言う。
それを見たCさんが、「AさんがBさんに指摘した」と言えば波風は立ちにくい。
けれど、「AさんがBさんに価値観を押し付けた」と言ったら、Aさんは気分を悪くするだろう。
それは、「Bさんの聖域にAさんは踏み込んだ。それはBさんにとって明らかに嫌なはずなのに、それでもAさんはした」と言われている感じがするからだ。
アルバイトのときの経験や今のたとえ話から考えるに、価値観というのは、結構丁寧に扱わないといけない言葉なんじゃないだろうか。
いやむしろ、自分には自分の価値観が、相手には相手の価値観があって、人それぞれは当たり前なのだから、あえて言う必要さえない。
胸に密かにしまっておくべき言葉なのではないか、と思う。
だけれど価値観という言葉は、今まったく聞かない言葉ではなくなっている。
価値観の違いに向き合えるようになるために、価値観という言葉に頼らざるを得なくなってきているんだろう。
考えを整理するためであって、人前にあえて出す必要のないもの。
けれどいつしか予期せぬ形で広まってしまって、それ自体を使わないともとに戻せなくなったもの。
「価値観」は、そんな言葉。
だから何か胃がもたれているような感じがするんだろうし、これからもすっきりしない感じがずっと残るだろうと思う。