「歴史的快挙」のアジテーション

「歴史的快挙」という言葉をメディアでよく聞く。

先頃も、MLBで活躍する大谷翔平選手の記録が歴史的快挙と言われた。
本塁打数リーグトップの選手が、先発投手を務めるのは、ベーブ・ルース以来100年ぶりだそうな。

僕は野球観戦が好きで、大谷選手の活躍をよく動画やネットの記事で見たりする。
その中で大谷選手が歴史的快挙を達成した!という文字を見ると、どんなことをしたんだろう…!と興奮する。

しかし、この「歴史的快挙」とは何を指し、何を意味しているのだろう。
どこか漠然としている。
どこか「これはすごいことなんだ!」と扇動されている感じもする。

歴史的とは何か?
歴史に残るような?
では、歴史とは何だろう。

僕が思うに、歴史は事実の積み重ねだ。

事実の積み重ねだからこそ、僕たちは、歴史がどこか揺るぎないものだと肌で感じている。
同時に、歴史がひっくり返るかもしれない、という言葉にワクワクもする。

これこそ歴史が事実であり、真実ではないことの証明だ。
歴史がひっくり返ると聞いたときに心躍るのは、真実に近づく感覚を得るからだろうと思う。

では、事実はどのようにして成り立つか。
誰かがその事実を目の当たりにし、誰かが伝え、誰かが認められなければならないと僕は聞いた。

そうであろう。
大谷翔平選手のとてつもない記録もまた、観客が目の当たりにし、メディアが伝え、周囲の人が認めなければ歴史に刻まれることはない。

特にこの周りに認められるというのは重要だ。
もしそうでなければ、これまで見たことがない、だけれど誰ひとりとして目撃者がいない珍プレーや好プレーが、歴史として事細かに刻まれることになる。
嘘であっても、それは成立する。
そんなのは誰も事実とは言わないだろう。
だから、事実が成立するには公共性が不可欠だ。

また、公共性は言葉でしか形作られない。
ある人が実際に言葉にし、ある人がそれを聞き、同じ景色を共有し、お互いに納得する。
ある人の言葉に納得できないのであれば、別の人は理由を述べ、その言い分を確固たるものにする証拠を提示する。

事実は、こうしたすり合わせの上に成立するものだ。
ゆえに語られないものは歴史とならない。

以上のことを踏まえるなら、歴史的とは公共的に長く語られるようなこと、になるだろう。

そう考えると、歴史的という言葉は過去にだけでなく、未来に対しても開かれていると言える。
しかも、強く。

他の事実はこれからの調査で変わることがあるだろう。
しかしこれだけは…!これだけは事実ではなく真実だと、未来でも伝えていくべきなんだ…!
そういう気持ちが歴史的には込められている。

「歴史的快挙」にあるのは、「この快挙は、これからも語り継がれることだろう」という期待ではなく、「この快挙を、これからも語り継ぐべし」という指令。

なるほど。
「歴史的快挙!」という言葉を見たときに、どこか扇動されている感じがしたのはそのせいか。

もちろん、大谷選手の偉業は語り継がれてもおかしくないものだと思っている。
動画のタイトルに「歴史的快挙」とついていたら再生してしまうし、ネットの記事についていたら思わず熟読してしまう。
だから、僕は「歴史的快挙」という言葉に多少の押し付け感は覚えつつも、別段、悪い印象持っていない。

だけれど、もしそれがスポーツ関連のメディアではなく、別ジャンルのメディアで使われていたら、僕はどう思うだろうか。

内容が、一歩立ち止まり、考えるべき話題だとしたら?
未来の人間関係や社会の平和に大きく関わることだとしたら?

僕は、「歴史的快挙」あるいは歴史的という言葉のアジテーションに耐えうることができるのだろうか。

メディアの力を甘く見すぎてはいけないことは確かだ。

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