以前、「自分だけは大丈夫、というのは、まるで見えない鎖だ。」という記事を書いた。
走行中のバス車内で、手放しでスマホを操作するのは危険だ。
でも、そんな注意喚起に辟易する権利はない。
僕たちも、それと同じくらいの危険性と、自分から向き合っていることが多いからだ。
そういう危険性を抜きにしても、僕たちは、暇さえあればスマホを触るようになった。
なぜだろうか。
それはスマホが「身近な理想を探す旅が簡単にできる道具」だからだと思う。
たとえば、Googleを開いてみよう。
Yahoo! JAPANのような、ポータルサイトをトップページを設定している人なら、すぐにさまざまな情報が目に飛び込んでくるだろう。
トップページに何も指定していなくても、前まで見た記事に関連した記事たちを見るだろう。
そこで、何気なくそれらの記事のタイトルを見送っていると、ふと前々から気になっていたアイテムのレビュー記事があがっている。
「どれどれ」と気になってアクセスする。
すると、その記事では、実際にアイテムを使ったらどうなるのか、写真付きで丁寧に紹介しながら、正直なレビューをしている。
僕たちは、それを読んで、ありありと理想の姿を思い浮かべるだろう。
こんな便利な収納品があったら、自分の生活は豊かになるだろうな。
こういう化粧品があったら、自分はもっと美しくなれるだろうな。
そして気分を良くする。
SNSでも同じ。
いろんな人の投稿を見る中で、自分の理想を具現化したような投稿に出会うことがある。
僕たちは、それを読んで、「ふむふむ」と心の中で言いながら自分の理想の姿をイメージするだろう。
この知識、自分のレベルアップにつながるな。
この情報、仕事に活かせそうだな。
そして何か得した気分になる。
記事や投稿の内容は、身近であればあるほど気持ちの高ぶりが大きくなる。
結果、何をするのかと言うと、誰かに伝える、共有する。
スマホは、身近な理想、自分の手の届く範囲にある理想に簡単に出会わせてくれる。
テレビよりも新聞よりも本よりも、はるかに早く、大量に。
だけれど一方で、スマホを使えば、絶対に身近な理想に出会えるとは限らない。
むしろ、僕たちの手の届かないところにある理想に出くわすことが多い。
僕たちの信条に反するような動画や写真が出てくることもある。
僕たちは、そういう情報を見てしまうと、異様に嫌な気持ちになり、反発する。
下に見られている感じがするし、あるいは自分の理想を否定される気持ちになるからだ。
だからこそ、僕たちはスマホを触り続けてしまう。
次は、自分の身近な理想を示す情報が得られるはず、と。
僕たちは、まるで情報の大海原で、身近な理想という宝を探す冒険者だ。
宝を見つけたときの喜びを忘れられず、何度も旅をする冒険者。
あの刺激に打ち勝つことがないかぎり、僕たちは、スマホを触り続けることだろう。
ほら、現に、今も。
僕は、身近な理想は心を満たしてくれると思っているから、探すこと自体に対してダメだとか、そういうのを言うつもりはまったくない。
僕だって、スマホを触っていろんな情報を探しているし、刺激を求めている。
でも同時に、僕たちが身近な理想を探し続けているとき、日常を取りこぼしていることを忘れてはいけないと思っている。
宝を探すのに夢中になりすぎて、周りに迷惑をかけていないか。
家族や友人と過ごす時間をないがしろにしていないか。
季節ごとに変化する日常の風景に気づけなくなっていないか。
自然の音や匂いに鈍感になりすぎていないか。
僕たちは、スマホおかげで、手軽に身近な理想を探す冒険ができるようになった。
でも、だからこそ、冒険をしていいタイミングに慎重になるべきだろう。
冒険ができるのは、宝が宝たりうるのは、日常があってこそなのだ。
冒険がしたいからと言って、日常をないがしろにするのは、厳しいかもしれないが冒険者として失格と言わざるを得ない。